2025年02月21日
2024年04月02日
感じ取りの能力と、仕事としての限界について
この人の書いたものを読むと、やる気になる。
進むべき波の流れのようなものが見えてきて興奮を覚える、そんなことはありませんか?
ブログやx(旧ツイッター)で引用させていただいている河本英夫先生の書籍を読むたびに、何かをつかみかけている気持ちになります。
社会人大学院生として河本先生の講義を受けた経験からそうであろうと理解できるユーモア(皮肉)を著書の文章から読み取るとき、それが先生を知る読者への「わかるだろう?」という合図のようにも思えます。
河本先生の著書は極めて難解です。
システム理論のコーナーに置かれていることから、工学的な分野、社会学的な分野について書かれていると思いがちなのですが、ご自身のバックグラウンドである西洋哲学が多く引用されているので、哲学への理解が前提として必須になります。
わたしも理解しているわけではありません。
それなのに講義を聞いているとなぜだかワクワクする。
今はご本人にお目にかかることはありませんが、書棚にある本を再び手に取り読み始めると、前には理解できなかったことがまた少し理解できてきそうな高揚感が舞い戻ります。
再読している河本先生の著書にこうした文章を見つけました。
「こうした触覚性の現実には、三人称表現と一人称表現のギャップとは異なるギャップがあることである。三人称と一人称の表現には、どこかで変換関係が残っている。そのため一人称の固有性ということが成立している。ところが触覚性現実は、一般的な意味と対置される本人の固有の意味合いという対比によるものではない。この落差は、決定的に大きく、両者の間での変換関係が効かない。身体や身体運動について、身体が在る感じがしない、歩行を行っている感じがしないという事態は、リハビリの現場で繰り返し直面する言葉であるが、それぞれの患者に固有の個人的な事態というより身体や身体動作に起きる変容の仕方が一般的な変容ではなく、意味論的内実の限界の一歩先にあることを意味している。触覚性の変化は、意味の変化から推定されるものの一歩先にある変化である」
脳梗塞などで麻痺を起こした身体は、一人称では語ることができません。
通常に語られるような一人称的感覚は「本人の自覚に頼った感覚」があってのことですが、麻痺の身体には「本人の自覚による感覚」は存在しません。
それが「一般的ではない変容の仕方」なのです。
「感じられない」という意味合いは「なんだかよくわからない」「言われていることが理解できない」という文脈ではなく、文字通り「感覚を感じない身体である」という意味合いになります。
ここでの「触覚性感覚」はボディワークでいるところの「体感」です。
この体感は数値的なものの側面と、一人称的に感じる側面のふたつの側面を持ちます。
著書には「…つまり身体や運動や動作や行為にかかわる言語は、つねに二重に理解する訓練を積まなければならない。たとえば身体の重さは、体重計で計量されたものと、自分自身で感じ取っているものとは、重さと言ってもまるで異なっている。語に対しての経験の仕方を変えなければならないのである」と説明されています。
体感がいかに欠かせないものであるかについて、脳性麻痺(と思われる)児童、片麻痺患者が例に挙げられています。
発達障害児で、腰掛けることができる腹筋背筋は発達しているが、首が座らない。これは頭の重さを感じ取れないことによるものであること、片麻痺患者の歩行では重心移動が困難であることから、重さを感じることの重要性が示唆されています。
「重さを感じ取ることは、動作の形成にとって、緊要な要素なのである。身体の『支持』が成立するためには、重さの感じ取りを欠くことが出来ないのである」と結んでいます。
しばし本を閉じて、考えました。
麻痺のない自分には経験することのない「身体が感じられない」状態とはどんな状態なのか。
ある方は「右腕は存在していないように、ないくらいに動きもなければ感覚もないのに、からだに重さだけがかかっている」とご自身のからだを表現しました。
わたしたちは互いに分かり合えないと、同じものを見ているように思えても実際は個人の感覚に依存する異なる現象をそれぞれの解釈で見ているに過ぎないと、誤解のもとに同じ世界を共有している気分を感じているに過ぎないと、悲しい現実を突きつけるのが現象学です。
同じ風景を見ながらも分かり合えない事実を受け入れることすら難しいのに、それ以上に厳しい現実が突き詰められるとき。
相手の世界を共有できないという現実を否定するのは、人間的な感傷でしかないと打ちのめされたとき。
わたしたちはいったい、何ができるのでしょう。
そして、何を求められるのでしょう。
一人の人間と向き合うには、かなりの勇気と忍耐、覚悟と物理的な負担を伴います。
それを、仕事として割り切ることができるのか。
そんなことを考えました。

*******************
*斎藤個人セッションのお申込み、新宿オフィスアクセスのご案内*
ご希望のセッションと、ご希望日を第三希望までお知らせください。
申し込みフォーム https://www.rolfingopenpath.com/contact-10
斎藤みず穂公式サイト https://www.rolfingopenpath.com/
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進むべき波の流れのようなものが見えてきて興奮を覚える、そんなことはありませんか?
ブログやx(旧ツイッター)で引用させていただいている河本英夫先生の書籍を読むたびに、何かをつかみかけている気持ちになります。
社会人大学院生として河本先生の講義を受けた経験からそうであろうと理解できるユーモア(皮肉)を著書の文章から読み取るとき、それが先生を知る読者への「わかるだろう?」という合図のようにも思えます。
河本先生の著書は極めて難解です。
システム理論のコーナーに置かれていることから、工学的な分野、社会学的な分野について書かれていると思いがちなのですが、ご自身のバックグラウンドである西洋哲学が多く引用されているので、哲学への理解が前提として必須になります。
わたしも理解しているわけではありません。
それなのに講義を聞いているとなぜだかワクワクする。
今はご本人にお目にかかることはありませんが、書棚にある本を再び手に取り読み始めると、前には理解できなかったことがまた少し理解できてきそうな高揚感が舞い戻ります。
再読している河本先生の著書にこうした文章を見つけました。
「こうした触覚性の現実には、三人称表現と一人称表現のギャップとは異なるギャップがあることである。三人称と一人称の表現には、どこかで変換関係が残っている。そのため一人称の固有性ということが成立している。ところが触覚性現実は、一般的な意味と対置される本人の固有の意味合いという対比によるものではない。この落差は、決定的に大きく、両者の間での変換関係が効かない。身体や身体運動について、身体が在る感じがしない、歩行を行っている感じがしないという事態は、リハビリの現場で繰り返し直面する言葉であるが、それぞれの患者に固有の個人的な事態というより身体や身体動作に起きる変容の仕方が一般的な変容ではなく、意味論的内実の限界の一歩先にあることを意味している。触覚性の変化は、意味の変化から推定されるものの一歩先にある変化である」
脳梗塞などで麻痺を起こした身体は、一人称では語ることができません。
通常に語られるような一人称的感覚は「本人の自覚に頼った感覚」があってのことですが、麻痺の身体には「本人の自覚による感覚」は存在しません。
それが「一般的ではない変容の仕方」なのです。
「感じられない」という意味合いは「なんだかよくわからない」「言われていることが理解できない」という文脈ではなく、文字通り「感覚を感じない身体である」という意味合いになります。
ここでの「触覚性感覚」はボディワークでいるところの「体感」です。
この体感は数値的なものの側面と、一人称的に感じる側面のふたつの側面を持ちます。
著書には「…つまり身体や運動や動作や行為にかかわる言語は、つねに二重に理解する訓練を積まなければならない。たとえば身体の重さは、体重計で計量されたものと、自分自身で感じ取っているものとは、重さと言ってもまるで異なっている。語に対しての経験の仕方を変えなければならないのである」と説明されています。
体感がいかに欠かせないものであるかについて、脳性麻痺(と思われる)児童、片麻痺患者が例に挙げられています。
発達障害児で、腰掛けることができる腹筋背筋は発達しているが、首が座らない。これは頭の重さを感じ取れないことによるものであること、片麻痺患者の歩行では重心移動が困難であることから、重さを感じることの重要性が示唆されています。
「重さを感じ取ることは、動作の形成にとって、緊要な要素なのである。身体の『支持』が成立するためには、重さの感じ取りを欠くことが出来ないのである」と結んでいます。
しばし本を閉じて、考えました。
麻痺のない自分には経験することのない「身体が感じられない」状態とはどんな状態なのか。
ある方は「右腕は存在していないように、ないくらいに動きもなければ感覚もないのに、からだに重さだけがかかっている」とご自身のからだを表現しました。
わたしたちは互いに分かり合えないと、同じものを見ているように思えても実際は個人の感覚に依存する異なる現象をそれぞれの解釈で見ているに過ぎないと、誤解のもとに同じ世界を共有している気分を感じているに過ぎないと、悲しい現実を突きつけるのが現象学です。
同じ風景を見ながらも分かり合えない事実を受け入れることすら難しいのに、それ以上に厳しい現実が突き詰められるとき。
相手の世界を共有できないという現実を否定するのは、人間的な感傷でしかないと打ちのめされたとき。
わたしたちはいったい、何ができるのでしょう。
そして、何を求められるのでしょう。
一人の人間と向き合うには、かなりの勇気と忍耐、覚悟と物理的な負担を伴います。
それを、仕事として割り切ることができるのか。
そんなことを考えました。

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申し込みフォーム https://www.rolfingopenpath.com/contact-10
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2023年05月23日
フォントを変えたい
さくらブログのデザインを変えたら、フォント、フォントの大きさ、行間も変わってしまいました。
さくらサーバの仕様も変わったようで、フォントを変更するにはワードプレスから〇〇をダウンロードして…という複雑な行程があるようです。
しばらくは、不本意ながらデフォルトの仕様で利用していこうと思います。
読みづらくて申し訳ありません。
こういう問題は一体、誰に相談したらいいのでしょうね。
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