確かに、新しい事は既存の事をベースとして生まれますが、全く同じものは生まれないはずです。
全く新しいものが生まれる時、それはそれで慎重に対処するべきかもしれません。
というのは、そうした「従来にないもの」はいわゆる「啓示的」にある一人のひと(または志を同じくするグループに)突然に脈絡なく舞い降りるものだからです。
それはどこからもたらされたものなのか。
多くの場合、それは目に見えない存在からもたらされたものとして世に広められます。
新しいものを提供する側は、その新しさを周囲に知らしめる方法と技量を合わせ持つ必要があります。
単に目先を変えたり、技術提供の方法を変えたりする程度では「新しさ」にはなりえません。
それがどういうレベル(層、深さ、細部、段階)で従来のものと違うのか。
その違いが技術をどう変化させているのか。
技術による結果は、実質上、どれほどの恩恵をもたらすのか。
こうしたことを総合的に体現的に示すことができて初めて、新たなメソッドとして提供できるのだと思います。
一生を通じて自分は学ぶ立場であると感じているのですが、数年前に再び学生として学びの場に戻った時に「理解が浅いほど表面的な理解を求める」傾向が強まることに気づきました。
自分にとって理解しやすいキーワードに飛びつき、とにかくそのキーワードに関連することでなおかつ自分の理解が及ぶことを、次から次へと求めました。
時間がたっぷりとあった学生時代であれば、試行錯誤しつつ学ぶことが本業の学生に適した学習法であったのだろうと思いますが、社会人学生であった私にとっては好ましくない学習法でした。
まがいなりにも伝える立場に立つことがある今、すでに見知ったことに執着してしまう大人、あちらへこちらへと興味や嗜好が移り変わる大人と接するたびに「違いを理解すること」と「掘り下げること」への大切さをどうやって伝えたらいいのかと悩みます。
掘り下げていけば自然と枝葉が生まれてくること、自らを空洞にすること、そう考えていて、なるほど何事も中空が良いのかもと宗教的な考え方にたどり着いてしまいました。
偉そうなことは一切言えず、私自身が右に左にと大きく揺れている状態であることに間違いはありません。
オチの無いブログとなってしまいましたが、これはこれで良しとしてアップします。

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