だが意識が川の流れのように流れているはずはない。
つまり意識流そのものは、とてもまずい比喩である。
だが流れに比される運動感とともにそのつどまとまりを形成しているはずである。
ところでこのまとまりをあたえているものを、流れていく意識とは別の機能性として設定すると、独自の働きを備えた意識を再度別立てで設定しなければならなくなる。
フッサールではそれが「原意識」と呼ばれる。
この場合、原意識は流れとともにまとまりをあたえるものとして過剰な役割を担わざるをえなくなる。
この原意識は、原印象(感覚印象の開始)から過去把持(それとして感覚されていること)への移行にもともなっていて、それじたいが組織化する働きを担いながら連続性を支えているともされている…
(河本英夫)
意識が時間と共にあること、運動感と共にあること(差違と言い換えることもできるのだろうか?)。
意識をまとめるのは意識ではなく、原意識であるということ。
原意識は過去の把持(過去に体験した印象無しには生まれ得なかった)現象であり、現在と水平の空間で存在するだろうこと。
現在体験する知覚は過去の印象を背負ったものであり、その過去の印象が現在を作りまたそれを超越して存在を持ち上げること。
意識は氷山の一角として図式化されていることが多いのですが、こう考えると時間と空間の中に存在しているものだと考えることができます。
抑圧された「イケナイ考え」で自我に抑圧されるものではなく、過去によってあらかじめ作られた現在であり、また未来像を作る基礎となるものであり、下から上へ(または上から下へ)と移動するものではなく水平に移動するもののようです。
