今回のブログは、発達障害、精神障害、知的障害についての違いとそうした障害を持った相手との交流を通じて感じたことを書いてみようと思います。
高次機能障害であると告白していたが、実は知的障害と精神障害も抱えており、依存症をきっかけに善悪の判断すら難しくなってしまった方との交流なのですが、学習障害と精神障害、知的障害は全くことなるものだと知るきっかけになりました。
まずは学習障害、精神障害、知的障害の違いを見てみようと思います。
<発達障害>
子供の発達途上において、生体の機能の一部が成熟しないでとどまっている状態。
広汎性発達障害・学習障害・注意欠陥多動性障害(ADHD)、知的障害、発達性言語障害、発達性協調運動障害などがある。知能指数が通常から高い場合は発達障害、IQ70以下の場合には知的障害と呼ばれる。発達障害を伴う知的障害もある。
<知的障害>
知能を中心とする精神の発達が幼少期から遅れていて、 社会生活への適応が困難な状態。通常は知能指数(IQ)を基準に使い、軽度・中等度・重度・最重度に分けられる。
<精神障害>
精神障害とは、さまざまな原因により精神の正常な働きが障害され、そのためにいろいろの精神症状や行動の異常が出現したり、本人が苦痛を覚える場合を総称していうことばである。
社会福祉の分野では、ノーマライゼーション ―「社会で日々を過ごす一人の人間として、障害者の生活状態が、障害のない人の生活状態と同じであることは、障害者の権利である。障害者は、可能な限り同じ条件のもとに置かれるべきであり、そのような状況を実現するための生活条件の改善が必要である」とする考え方― に対する認知を広め、共通の認識にしようとする働きがあります。
私たち日本人は、弱者に対して優しくあれ、寛大であれと教えられてきました。ですから、このノーマライゼーションの考えを抵抗なく受け入れることができるだろうと思います。
相手に対する尊敬の念を持つことはもちろん良いことだし、心を豊かにすることだと思います。
でも、その「かくあるべき」という気持ちが真実を見る目を曇らせることもあるのではないでしょうか。
ノーマライゼーションの定義にある「そのような状況を実現するための生活条件の改善が必要である」という項目については、例えば仕事の上で通達の方法を工夫したり、外的刺激に敏感な者に対しては刺激を低下させるよう工夫をするとか、ストレスを感じない範囲で仕事を振り分けるとか、困難を軽減するための基盤があることが「一緒に仕事をするとき」の前提条件となります。
障害を受け止めてくれる基盤がない場所で、例えばボディワークのように、クライアントとワーカーが一対一で出会う場で、クライアントがワーカーの障害について知らされていない場合。
これはワーカーにとって「適所」とは言いがたいでしょう。
障害があってもなくても「適材適所」で生きていくというのが幸せな生き方ではないかと思います。
ノーマライゼーションの目的はあくまで「可能な限り同じ条件のもとに」です。
不可能な場合はその限りではない、ということを暗に示しています。
例えば上記の「社会生活への適応が困難な状態」や「さまざまな原因により精神の正常な働きが障害され、そのためにいろいろの精神症状や行動の異常が出現」する場合は、本人の希望があったとしても、「同じ条件のもと」で生活するのは難しいはずです。
飲酒の衝動や性的な衝動が抑えられない人物が一対一のボディワークセッションを行うことを、ノーマライゼーションとかソーシャルインクルージョンという言葉のコーティングでごまかしていいものか。
ワーカー本人が客観的に自分を見る能力を持たず、保護責任を負うべき肉親がそれを放棄しているように見受けられるなら、誰がそれを止めることができるのでしょうか。
障害の有無に関わらず誰でもが弱者になることを、私たちはしっかりと頭の中において、生活をしていかなくてはいけないようです。
「泣く子には勝てない」といいますが、理屈が通じない相手というのは存在するのです。
これまでずっと心の中にあったモヤモヤを、やっと言葉にすることができました。
反論をお持ちの方もいらっしゃるかと思いますが、経験からの言葉ですのでどうぞご容赦ください。

参考文献『現代社会福祉用語の基礎知識』学文社
セッションの基本だと思っております。
勘の良いクライアントさんであれば
気づかれるとは思いますが
そうでなければ1対1のセッションでは
ちょっと怖い気がします。
危険な兆候を持っている事を知りつつ見逃すというのは人としての倫理に反するし、世の中にとっての「善」とは言えない気がします。
何よりも、やって良いことと悪いことの区別がつかないというのは怖いなと思います。
言って聞かせてもダメ。
もう助けようがなくなってしまうのですから…